戦国時代の各大名の石高と出兵能力の関係について

日本の戦国時代は日々戦いの連続の時代でした。記録に残されている合戦数は膨大で、有名な織田信長だけを見ても生涯の合戦数は50を軽く超えています。毎年何かしら戦っていたということになります。領土が拡大していくと、指揮官として戦場へ赴くこともなくなり、部下たちを指揮官として送り出していました。




戦国時代でよく聞く言葉に石高と兵力があります。石高とは米の生産量を表し、兵力は兵士の数を表します。石高は石(こく)という単位で表されており、1石で約180リットルを表します。石は重さではなく体積です。また、1石は成人一人が1年間に食べるコメの量とほぼ等しいとみなされていたので、便利な単位として使われていました。最近ではスーパーに行けばコメは石や斗などの古い単位ではなくキログラムの単位で売られています。

米一粒は水より重いですが、小さな固形物で、互いの間にすき間があるので、1リットルの米を取り出すと、大体800グラムから900グラムの重さになります。1石で大体150キログラム程度です。

旧帝国陸軍が、石高と1年間を通して出兵可能な人数を試算したところ、1万石あたり250人程度という結果でした。これは10万石の大名が動員できる兵力数は約2500人ということになります。もちろん、堺など当時の大都市では石高ではなくお金で軍隊を雇っていたので、金銭的な収入があった地域は異なりますが、農業を領国経営の基盤にしていた大名たちにはおおむね当てはまる数字だと思います。

よく尾張の織田信長は弱小であると言われますが、実際は木曽川、揖斐川、長良川という大河により作り出された肥沃なデルタ地帯を勢力下に収めていました。太閤検地では尾張の石高は何と57万石です。駿河の15万石、遠江の25万5千石、三河の29万石と比べても非常に生産性が高い土地であることがわかります。




尾張は領土は小さいですが、生産高は非常に高かったのです。 この石高と出兵能力を比較すると、桶狭間の戦いは今川側が一方的に強かったわけではないのではないか?という通説を覆す説が出てくるようになりました。桶狭間の際には尾張では雑兵含めて1万人以上の兵隊を動員できたことになります。

もちろん、尾張は不安定でしたので、出兵可能な人数はさらに下がると思いますが、駿河と遠江と三河の一部を勢力圏に置いていた今川側の兵力と言われている2万や4万人などという数字は信憑性がなくなります。いくら北条氏と武田氏と三国同盟を結んだとしても上洛には何とも心もとない石高です。

また、甲斐も山間の国で耕作地が少ないために22万石と低く信濃を合わせて63万石です。金山開発で得られた甲州金が武田信玄の強さを支えていたことが推測されます。

意外に弱かったのが56万石と終わりと同じくらいの石高を誇る伊勢で、大名の北畠家がいまいち弱かった分、一向一揆が大勢力を持っていました。織田信長も長島の一向一揆には大苦戦をしています。このように石高に基づいて考えてみるとまた違った戦国時代が見えてきて面白いですね( ´∀`)

太閤検地の結果

現在では織田信長に関する資料は信長公紀や武功夜話などの限られたものしかありません。当時の様子は具体的にはよくわかっていないので、推測が飛び交っていますが、当時の資料が見つかることで定説が覆ることも多々あります。

例えば美濃の斉藤道三は一人の人物が油売りから一国の領主までなりあがったと思われていましたが、10年ほど前に六角承禎が家臣に宛てた手紙が発見され、その内容に、斉藤道三は親子2代で領主まで上り詰めたという内容が書かれていました。これにより、現在では斉藤道三は親子2代で美濃の領主になったと言われるようになっています。戦国時代に関しては詳細がまだまだ分かっていないことが沢山ありますので、想像が掻き立てられます。

戦国時代や歴史好きの方は、歴史上の合戦と動員人数を、コメの生産高とあわせて考えてみるとまた違った視点から物事を見ることができるので、ぜひぜひ参考にしてみてください。




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