少典(しょうてん Shào Diǎn)
少典は中国神話時代の有蟜氏族の首領です。黄帝を生んだことで有熊と号し、有熊国に封じられたので有熊国の君主として尊ばれています。そのため、多くの史料では黄帝は有熊氏と呼ばれています。
中国歴史地図集では、夏、商時代の地図上では、有熊氏の勢力下には二つの大きな特色がある。南には潁水が、北には人隗山があることである。漢書・地理志には、河南郡には大隗山があり、禹、蜜、新三県を抑えていた、とあります。北魏の地理学者である酈道元の水経注では、この大隗とは茨山であると注釈しています。禹州市志や禹州市地名志にはさらに詳しい記載があり、茨山は禹州の北部にある、とあります。禹州市は河南省許昌市北西部の一帯です。他にも幾つかの記述より、有熊は禹州市の北部の大隗山の南部から潁水の北、薈萃山以東の700平方キロメートルほど地域であったと推測されています。
戦国時代の庄子は、原始時代には、民はその母は知っているがその父は知らず、麋鹿と共にあった、と言いました。そのため、黄帝の出生にはいくつかの話があります。もっとも有名な話は以下の通りです。
有熊国の国君であった少典が有喬氏の二人の娘を娶り妃とし、長妃は女登。次妃は附宝と言いました。ある日、長妃が華亭で遊んでいると、忽然と一条の神龍が現れました。女登はこれにより妊娠し、炎帝を生み、榆罔(ゆもう)と名付けました。伝説では、生まれて三日で話すことができ、五日で走れ、七日で全ての歯が生えそろい、五歳で農業の知識を学び終わったと言います。しかし、榆罔の容貌は醜く、牛の頭部で人間の身体、怒りっぽく凶暴であり、少典は嫌っていたので榆罔と女登を姜水河畔で暮らさせました。このため、炎帝が成長すると、姜を姓としました。
少典の次妃での附宝ですが、こちらもある日郊外で遊んでいると、忽然と暴雨に遭い、大きな稲妻が身に纏わりつき、しばらくして離れて行き、北斗を回り去っていきました。その結果、附宝は妊娠し、25か月後に黄帝を生み、雲と名付けました。黄帝は成長すると河目龍顔(目の周囲が平らで目が長く龍に似た顔)であり、生まれてすぐ話すことができ、性格は和やかで善であり、少典の愛情を一身に受けたので、少典は黄帝と附宝と共に陰水河の畔に住みました。附宝は非常に美人であったので、人々は美姫と呼びました。附宝は陰水の河岸でよく衣服や野菜を洗い、多くの人々がその様子を見たので、その河は姫水と呼ばれるようになりました。黄帝が成長して以降、姫を姓としたので、姫雲と名乗りました。
何かに感応して身籠る話は感生伝説と呼ばれ、東アジアでは時々見られます。この他には母親が巨人の足跡を踏んで妊娠した后稷の話や、玄鳥の卵を飲んで妊娠した契の話などがありますが、話によっては生まれた人物が異なるなど混同がみられます。
榆罔が大人になると、精悍な武人となり、その知恵は優れていたので部落の首領となりました。牛をトーテムとし、旗に描きました。巫師は彼が火徳が盛んであることから炎帝と称しました。炎帝は赭鞭と言う名の一条の神鞭を持っており、その鞭で各種の野草を刈り、薬効成分を抽出しました。炎帝はこれらの薬草が無毒か有毒かを調べるために、草を自ら嘗めてその効果を確認しました。これにより、炎帝氏族の人々は身体的に強壮となったので、急速に繁栄しました。そして、渭水、黄河に沿って立ちはだかる部族を撃破しながら東遷し、河北、河南、湖北を経て山東の曲阜へと至り、最終的には于陳を都としました。于陳は現在の河南省淮陽県に当たります。
炎帝は黄帝以前に生きたという話もあります。炎帝は代々世襲されており、榆罔は初代炎帝から数えて8代目の炎帝です。トーテムとはアメリカ先住民にも見られるトーテム信仰における象徴のことです。例えば、鷲をトーテムに持つと一族と鷲を同一視し、鷲の羽などを身に着け信仰します。ちなみに、龍や鳳凰、麒麟などは一説によるとこのトーテム信仰の延長で作られたと言われています。これら空想上の生き物を作り出し、一族のトーテムとして信仰しました。また、これらの生き物は、実在する動物の手足、頭といったパーツを組み合わせて作り出されています。
一方の黄帝は成長すると身長は九尺になりました。仁義に厚く、人に対して誠実であり人民の尊敬を集めたので部族の長となり、有熊国を継承しました。黄帝は姫河両岸の利点を活かして豊富な鉱物資源を採集し、部族の農業や牧畜の発展を助けました。そして、自ら百姓に五穀の育て方を教えると共に、家畜の育成方法も教えました。これにより、有熊の生産性は急激に向上しました。周辺の小さな部族は黄帝の仁義を見て友好を求め、その数は次第に増えていきやがて有熊は中原最大の部族へと成長しました。この黄帝や炎帝の部族は夏族と呼ばれています。巫師は黄帝が土徳を以って天下の王となすと言いました。五行説では土は黄色を指すので黄帝です。
有熊の隆興と同時期に長江流域に九黎族と呼ばれる強大な部族が出現していました。九黎族の首領は蚩尤(しゆう)と言い、兄弟は81人いました。皆戦闘能力が高く、獰猛であり、刀、戟、弓、弩などの武器を使いこなしていました。
蚩尤は凶暴で残忍であり、格闘を好み、炎帝が渭水を南下しているのを見て、部族を引き連れて北上し、陳州で大戦を繰り広げましたが炎帝は敵わず、山東の曲阜へと敗走しました。蚩尤は曲阜まで追いかけ攻撃を仕掛けると、炎帝はまた敗走し、河北の阪泉へと逃げました。蚩尤はさらに追撃し、炎帝は涿鹿まで逃げました。涿鹿は黄帝の勢力下であり、使者を送り炎帝に帰順を促しましたが炎帝は聞き入れず、反して黄帝と阪泉で大戦を繰り広げました。結果は三戦して三敗であり、遂には黄帝に帰順し、邙山にて連合を組み共に蚩尤に相対しました。
黄帝は自ら出兵し、熊、羆、貔、貅、貙、虎をトーテムに持つ六部族を率いて蚩尤に攻撃を仕掛けました。伝説によると、蚩尤は銅頭鉄額、砂を食べて火を吐くなどと言われていて、鎧兜を纏っていたので容易に勝てる相手ではありません。しかし、黄帝の部族は農牧と同時に採鉱と冶金を発展させていた上に、兵馬に鉄製の干戈を装備させていたので蚩尤に劣りませんでした。
そして、黄帝と蚩尤は涿鹿の野で激突し、中国神話最大の戦いである涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)を繰り広げました。涿鹿の戦いの詳細は以下をご覧ください!
神獣を巻き込んだ古代中国神話最大の激戦、涿鹿(たくろく)の戦いとその結末
中国神話最大の功労者と言えば、涿鹿の戦いを制し、その統治の間に文字、音階、度量衡、車輪、絹等様々な発明があった黄帝の名が上がりますが、少典はこの黄帝の父親であることで有名です。
少典の子、黄帝の業績
黄帝が蚩尤を打ち破った後、長江流域の他の部族は黄帝に帰順し、黄帝は釜山で天下の諸侯と会し、天子に推挙されました。そして、部族のトーテムを作り出すために、蛇を主体とした生き物を作り出しました。蛇の胴体に魚の鱗と尻尾を取り付け、獅の頭、鹿の角、鷹の爪を取り付け、新しく作られたこの生き物を龍と名付けました。つまり、有名な龍はそもそも黄帝のトーテムとして作られたという伝説です。
黄帝は三十歳で結婚したと書いてある書物もありますが、四人の妻がいたと言われていますが、そのうちの嫘素と嫫母の功績が語り継がれています。嫘素は桑を植え養蚕を始め、嫫母は紡績機を発明し、織物を作りました。これにより、人々はそれまでの葛の蔓や麻などから作った着物から、優美で肌触りの良い絹の着物を着るようになりました。
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黄帝自身は人々の才能を重要視した人物でもあります。人を知り善く任せ、その長所を十分に発揮できるようにしました。その結果、この時代に様々な発明がなされています。例えば、蒼頡による造字であり、伯高に命じ銅を精錬させ、寧封子に陶器を作らせ、赤将には木器、かまどを、邑夷には車を、共鼓には船を造らせ、容戎には暦法を定めさせ、隷首には数の計算を興させ、令倫に音階を選ばせ、栄猿には鐘を鋳造させ、羲和と常儀には日月星辰の運行規律を観察させ、岐伯と雷公には医経を編纂させました。さらに、宮室、器皿、棺などもこの時代に発明されたとされています。このため、後世の人々から百物を作り出した、と称賛されています。
原始時代のさなかにこれだけの発明を行ったということは、有熊の文化が急激に発展し、周囲の国々へ波及して文明の発展を促したと言えます。実際のところは古すぎて伝説しか残っておらずわかりませんが、この黄帝の時代には大きな変革が行われたと考えられます。また、黄帝に由来するとされている遺跡は禹州に多くあり、禹州の南、北、中部地区に集中しています。特に具茨山上には沢山の遺跡があり、黄帝遺跡群と呼ばれています。
戦国時代の思想家である庄周(庄子:前369-前286)は、その著作である徐元鬼篇中に黄帝が具茨山で大隗に出会った故事を書いています。大隗は大槐とも書かれますが、治世の才能を持った人物であり、その噂を聞きつけた黄帝が六人の配下を引き連れて大隗の元を訪れた際に、具茨山で道に迷いました。溝の側を歩いていると家畜の番をしていた子供が現れたので具茨山の方向を聞きました。子供は、「知っています。」と答えました。そこで黄帝たちは。「大隗」と言う人物を知っているかと聞くと、子供は再び、「知っています。」と答えました。
黄帝はその子供から非凡性を感じ取って、「あなたは天下を治める道理を知っているか?」と聞くと、子供は、「天下を治めることは牧馬の道理と同じです。ただ、馬を害する者を去らせるのみです。」と答えました。これを聞いて黄帝は、「この子供ですらこれだけの見識があるので、大隗と言う人物はさらに見識が深いに違いない。」と思いました。いてもたってもいられなくなった黄帝は、子供と分かれて子供が指し示した方向に向かって急いで進みました。そして、具茨山の山中で大隗を見つけました。以降、大隗は黄帝の重臣となりました。
黄帝は帰路の際に、あの子供を探しましたが見つけることが出来ず、子供に出会った場所の溝を馬溝と名付けました。これは現在浅井郷馬溝村として残されています。馬溝河は村を横切って流れており、両岸には石窟が沢山あります。この村には古くから黄帝が具茨山に大隗を訪ねた故事が伝わっています。また、具茨山に大隗が住んでいたことから、具茨山は大隗山とも呼ばれています。
北魏の水文地理学家の酈道元(466-527)は、水経注の中で以下のような話を書いています。黄帝が具茨山に登った際に、神芝図を授かりました。芝とは菌類のことを指しており、様々な種類が書かれていました。これらの芝は食べられると共に薬用としても使用されたと言います。霊芝はこの菌類の中の一種です。
今、具茨山の向陽坡には、山腰に自然な洞窟が残っており、地元の人々はそれを「神芝洞」と呼んでいます。伝説によれば、黄帝がこの洞窟で「本草」という書を整理し、多くの食用や薬用のキノコの図譜をまとめたと言われ、それは世に伝えられています。
「庄子・在宥篇」には、「黄帝十九年、崆峒喇山で広成子に会った」とあります。崆峒山は禹州市の北西、浅井と苌庄の2つの郷の境界に位置し、東西に走っており、標高669メートルです。東には青龍山、火石山があり、東北には愛鶴坪、東南には耧鏵山、南には殿山、西には化山があります。山々が連なり、山岳が交差しています。広成子は古代の知識豊富な哲人でした。黄帝はかつて酚族の民衆を治療するために、円丘山で一種の薬材を採る必要がありましたが、山には大蛇が多く、人々は上ることができませんでした。広成子は彼に一つの方法を教えました。全身に雄黄を塗り、蛇たちはそれを嗅いで避けるというものです。後に広成子は山に隠遁し、修行して仙人になりました。黄帝が天子に即位した後、広成子が崆峒に住んでいることを聞き、黄帝は山に登って広成子に会い、天地の「至道」を尋ねました。それは五穀の豊穣と国家の繁栄、人民の安寧を促すものでした。広成子は黄帝に「自然」の経を伝え、土から生まれ土に還ると告げました。自然の法則に従い、陰陽の調和を善くすることで、人民を安定させ、国家を強くするのです。黄帝の死後、彼は山に入って修行したいと心に決め、元妃の嫘祖娘娘を連れて浅井郷の散驾村で臣下たちに別れを告げ、山に登り、再び広成子を訪ねました。そして彼は逍遥の庵に引退しました。現在でもここには黄帝の「向道处」、「得道庵」、「広成庙」、「娘娘蛋坡」、「大仙觀」など多くの遺跡が残っています。
司馬遷は言いました。「黄帝は風後、力牧、常先、大鴻を挙げて民を治めた。」この4人の重臣のうち、3人は禹州のこの古い土地の原始部族出身です。
風后は太昊伏羲氏の子孫で、具茨河上流に住んでいました。ある日、黄帝が夢を見ました。夢の中で、大風が世界中の塵埃を吹き飛ばしてしまいました。目を覚ますと、黄帝は自分自身に思いをめぐらせました。「風は命令を伝える意味であり、塵埃を吹き飛ばすものですが、その後にもなお存在します。もしかして、風という姓を持つ人が私の統治を助けてくれるのでしょうか?」そこで、彼は賢人を探し求め、ついに龍門沟で風后を見つけ出し、彼を重用しました。風后は参相として任命され、攻戦を統率しました。彼は五旗を制定しました:東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄蛇、中央は黄龍です。これらの旗は各部族を区別するために使用され、戦闘は秩序正しく、攻撃や守備に優れていました。
風后の本拠地である風王寨は、現在の無梁鎮の北西3.5キロメートルに位置し、後に封王寨と改名されました。寨の後ろにある鳳凰山も、風王山から派生したものです。その後、風后の食邑もここに封じられたため、城関北大街には風后を迎える意味を表す迎風閣が建てられました。
力牧は実際には黄帝が馬沟で道を尋ねた際に出会った牧童です。当時、黄帝は彼が幼くても見識があり、口才も優れていることに驚きました。大隗との会談の後、黄帝は突然夢を見ました。夢の中で、ある人物が千斤の弓を持ち、何万頭もの羊を追い立てて放牧していました。黄帝は突然悟りました。「千斤の弓を持つ者は、大いなる力を持つことを示しています。何万頭もの羊を追い立てる者は、優れた牧童です。この牧童こそが姓が力で名が牧の人物ではないでしょうか。」そこで、黄帝は力牧を見つけ出し、彼を将軍としました。力牧は黄帝が天下を統一するのに大きな功績を挙げました。今日、馒头山の北側、洪河の東岸に位置する大木場は、かつて力牧が羊を放牧していた大規模な牧場でした。後に人々は山から木材を切り出し、洪水の時期には洪河を利用して運搬しました。そのため、この地は大木場と呼ばれるようになりました。
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大鸿族は、伝説によれば、現在の鳩山鄉大鸿寨風景観光区に住んでいました。”坷垃垛”は、大鸿の先祖たちが侵略者に抵抗した際に残した遺跡であり、大鸿寨の南東30キロメートルに位置する鸿畅鎮は、大鸿族が東へ移動した後の居住地でした。
具茨山は黄帝の軍事基地であり、将軍たちを集め、賢者を求め、道徳を学ぶ場所でした。大鸿、大隗、風后、力牧、常先など、黄帝の重臣たちは山上に兵士を配置していました。具茨山の主峰は大鸿寨で、標高は788メートルです。さらに東には風后頂があり、標高765メートルで、伏牛山脈の最東端に位置する高山です。東に進むと広大な豫中・豫東平原が広がり、これ以上の高い山はありませんので、「中天一柱」と称されています。
風后頂の南斜面には、現在でも風后城の城壁が数十里にわたって残っています。城壁は山の形に沿って建てられ、全て石で造られており、高さ6メートル、厚さ2メートルで、非常に壮大で険しいです。一人が立ち塞がり、万人が敵わないほどです。城を登る途中では、かつての野営地の断片や古い石の玉や矛などの兵器が見られることがあります。山の頂上には「黄帝御花苑」、「黄帝女儿梳粧台」、「黄帝訪賢石」など黄帝に関連する石のベンチ、デスク、ベッド、植物、泉水などの自然景観が残っています。
文献によると、少なくとも春秋時代の末期には、この時期に祖先を祭る登山活動が始まったとされています。寺院、神殿、宮殿、道観などの祭祀建築物は、歴代にわたって建設されました。現在も残っている轩辕庙、黄帝祠、幽胜宮像が展示され、上部には「人文初祖」と「功徳齐天」という2つの額が掲げられています。
様々な少典の系譜
(1) 夏王朝への系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配嫘祖)—昌意(黄帝の次子)—顓頊—駱明—鯀—禹(大禹/夏禹、姒文命、夏王朝初代君主)—夏启(姒启)—姒太康、姒元康、姒伯康、姒仲康、姒武観
(2) 商王朝の成湯の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊(姫己摯、又の名を玄囂、黄帝の長子)—蟜极—帝嚳(姫夋/姫俊/姫夒/姫夔)—契—昭明—相土—昌若—曹圉—冥—王亥(商族の始祖)—上甲微—報乙—報丙—報丁—主壬—主癸—商太祖成湯(商王朝初代君主)—太丁、外丙、仲壬
(3) 商王朝の王恒の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—帝嚳—契(前2096年-前?年在位)—昭明—相土—昌若—曹圉—冥—王恒(商王朝の君主)
(4) 周王朝の武王への系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊(姫己摯)—蟜极(姫蟜)—帝嚳(姫夋/姫俊/姫夒/姫夔)—棄(姫棄、后稷とも)—不窋(姫窋)—鞠(姫鞠)—公劉(姫劉)—慶節(姫節)—皇僕(姫僕)—差弗(姫弗)—毁隃(姫隃)—公非(姫非)—高圉(姫高)—亜圉(姫亜)—公叔祖類(姫類)—周太王(姫亶、古公亶父とも)—周王季(姫歴,又称季歴、王季、公季)—周文王姫昌—周武王姫発(周王朝の初代君主)
(5) 周王朝の祖である叔均への系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜極—帝嚳—台玺(姫玺)—叔均(姫均、周王朝の祖先)
(6) 帝堯の息子、丹朱の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—帝嚳—堯(帝堯、唐堯)—丹朱
(7) 帝嚳の息子、摯の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—帝嚳—摯
(8) 秦の始皇帝への系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—業父—大業—伯益—大廉—衍曾—衍祖—衍父—中衍—軒祖—軒父—戎胥軒—中潏—蜚廉—悪来—女防—旁皋—太己—大駱—秦非子(秦国首任国君)—秦侯—公伯—秦仲—秦庄公—……—秦始皇(嬴政、中国初代皇帝)
(9) 趙国の君主の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—業父—大業—伯益—大廉—衍曾—衍祖—衍父—中衍—軒祖—軒父—戎胥軒—中潏—蜚廉—季勝—孟增—衡父—造父—渠父—安父—梁父—莒父—奄父—叔帯(趙国の始祖)—明祖—明父—公明—趙成子(趙衰)、趙夙
(10) 費国の君主の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—業父—大業—伯益—若木(伯益次子)—昌曾—昌祖—昌父—費昌(費国の始祖で費姓の始祖)
(11) 唐の皇帝の始祖、皋陶の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—帝嚳—陶父—皋陶(唐の皇帝の始祖で李姓の始祖)
(12) 張姓の始祖、揮公の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—蟜极—揮公(張姓の始祖)
(13) 台駘の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—昧祖—昧父—昧—台駘
(14) 瞽目の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—少昊—重(句芒)、該(蓐收)、窮奇、般、倍伐、窮申、瞽目
(15) 古蜀王の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—昌意(黄帝次子)—顓頊—古蜀王、魍魉、梼杌
(16) 陳国の陳胡公への系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節))—昌意—顓頊—穷蝉—敬康—句望—橋牛—瞽叟—舜(帝舜、虞舜)—商均—……—遏父(虞閼父、商均の三十二世の子孫)—陳胡公(陳国の初代君主)
(17) 楚国の始祖、季連の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—昌意—顓頊—称—老童(巻章)—吴回—陸終—昆吾、参胡、彭祖、会人、曹姓(宴安)、季連(季姓、熊姓、芈姓、屈姓、景姓、昭姓の始祖、楚国の始祖):
李連以降の楚の君主までの系譜
①季連—附沮—穴熊—熊完—熊服—熊元—熊机—熊杼—熊懐—熊胤—熊靡—熊祖—熊潜—熊僅—熊紳—熊克—熊成—熊単—熊補—熊佐—熊文—熊浩—熊杰—熊启—熊苞—熊越—熊儃—熊俊—鬻熊(本名熊蚤)—熊麗(鬻熊の長子)—熊狂—熊繹(熊狂の長子)—熊艾
②季連—附沮—穴熊—熊完—熊服—熊元—熊机—熊杼—熊懐—熊胤—熊靡—熊祖—熊潜—熊僅—熊紳—熊克—熊成—熊単—熊補—熊佐—熊文—熊浩—熊杰—熊启—熊苞—熊越—熊儃—熊俊—鬻熊(本名熊蚤)—熊麗(鬻熊の長子)—熊狂—屈紃(熊狂の次子)
③季連—附沮—穴熊—熊完—熊服—熊元—熊机—熊杼—熊懐—熊胤—熊靡—熊祖—熊潜—熊僅—熊紳—熊克—熊成—熊単—熊補—熊佐—熊文—熊浩—熊杰—熊启—熊苞—熊越—熊儃—熊俊—鬻熊(本名熊蚤)—端木侸(鬻熊の次子、侸叔とも)—端木典(端木姓の始祖)
(18) 晋王朝の皇帝の系譜
燧人(配華胥氏)→伏羲(配女媧)→少典(配女登、生炎帝;配附宝、生黄帝)→黄帝(姫元/姫軒轅、配女節)—昌意—顓頊—称—老童—重黎(晋朝皇帝の始祖)
少典の墓
少典の墓は河南省鄭州市新鄭にあります。近くの通りには少典路、公園には軒轅湖公園と言う名前が付けられています。
出典:Baidu
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